コラム歴史探訪 第3回 松島神社(松島の荒神さん)
松島地区歴史探訪同好会 会長 万野年紀(文・写真)
松島神社 由緒と祭神
松島神社は、高松市松島町二丁目18-6にある、「松島の三宝荒神(さんぽうこうじん)さん」の名で親しまれている歴史ある神社です。
荒神さんとは、火・かまどの神さまです。
『香川県神社誌』(昭和13年)には、松島神社を次のように紹介しています。
祭神 稚産霊神(わかむすびのかみ)・市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)
由緒 県社石清尾八幡神社境外末社。
創祠詳ならず。
生駒氏時代の鎮座と伝ふ。
松平賴重及同夫人の崇敬厚かりしといふ。
明治43年現社地より南西3町許(ばかり)の処(ところ)より現社地に移転せり。
祭日 7月27日28日
主なる建造物 本殿・中殿・拝殿・社務所
宝物 鎌倉時代の念持仏2体
境内坪数 378坪
崇敬者人員 約2500人
境内神社 琴平神社(大物主神(おおものぬしのみこと) 崇徳天皇)。
稚産霊神は「食物・生産の神」、市寸島姫命は「水・海の神」です。
入口には平成6年の松島校区地域おこし推進委員会による説明板があり、そこには次のように書かれています。
「当松島神社は『松島の三宝荒神(さんぽうこうじん)さん』の名で親しまれてきた。…徳川時代の初期(寛永年間)、讃岐藩主生駒高俊の治世時代に創祀された。
そのあとをうけた高松藩主松平頼重公と同夫人皓月院(こうげついん)の崇敬も厚かったといわれている。
はじめの鎮座地は、約330メートル南西の地にあったが、明治43年当地所有の寺島正行氏の寄進により移転した。…」
讃岐生駒(いこま)家4代藩主、高俊の治世時代は1621~40年です。
遷宮記念碑
参道に入ると右側に大きな「遷宮記念碑」が建っています。
そこには、明治43年9月に、南西方向近くの場所からここに移って来たいきさつが記されています。
約380年前に創設され、約115年前にそこからこの場所に移ったということです。
「遷宮記念碑」の内容は次の通りです。現代仮名遣いにします。
「祠堂は元県道に沿って西南の田園の中にあり、社地が狭いので信徒の者があい寄って協議した。
たまたま、大阪で成功した寺嶋正行氏がこれを聞き、土地を寄付し、明治43年9月にこの地に遷して祀った。これにより三宝大荒神は多くの市民の敬神により栄えた。
このことの由来を書き、碑を建て永く世に伝える。
大正5年11月 入谷暘(よう)撰と書」。
寺嶋正行氏とは、大阪道頓堀で「やぐらおこし寺嶋総本店」として、最近まで営業していたおこし店の創業者の名前です。
神社入口の中央玉垣に「寺嶋正行」名があります。
松島神社遷宮前の場所はどこ?
では遷宮前の場所はどこだったのでしょうか。
『香川県神社誌』には「南西3町ばかりのところ」とあります。
1町が約109mなので、3町とは327mほどになります。
そこで地図上で、現神社本殿からその場所をたどると、御坊川の南の現、観光町の場所になってしまいました。
東濱村地区の松島の神社が、御坊川を越えた他の村に鎮座していたとするのはどうも腑に落ちません。
そんな時、遷宮前の松島神社が記された、明治21年の地図に出会ったのです。
そこには神社の参道も載っており、南東(御坊川の方向)に向かって鎮座しています(現在は北東向き)。
本来、神社は東向きや南向きです。次の左の地図です。
御坊川から北を見ます。
右端に多賀橋、右端上部に松島神社の楠の枝。写真中央の木の横(マンションの横)を北西方向に道があり、それが昔の参道にあたると考えられます。
このように、明治21年地図での松島神社の場所は、現、多賀橋北側の御坊川土手道から北西に進んだところです。
神社のもと参道が今は道というわけです。
こうして大きな疑問は解けたわけですが、移動距離3町というのがもうひとつの疑問です。
というのも、現地図で計測した移動直線距離が約135mだったのです。
3町ではなく約1.2町なのです。
それについては、こう考えてみました。
偶数でなく奇数を縁起良い数字とする陰陽説から来たのではないか。
特に3は、「充つ・満つ」につながり昔から大吉数とされていたそうです。
確証はありませんが、そう考えれば納得出来ます。
創建時の神社が御坊川そばで、御坊川に向いていたということに関して。
初めに、神社の創建は約380年前、讃岐藩主生駒家4代目、高俊の治世(1621~40年)と紹介しました。
この時代この地域は海浜で、西嶋八兵衛によって広く干拓が行われました。同時に御坊川の整備も当然なされたわけで、堤防には松が植えられたことでしょう。
その時に、御坊川の決壊防止や工事の安全祈願などのため松島神社が建てられたのではないかと私は推測しています。
ここからさらに1.3km川をさかのぼった楠上町の御坊川西岸に楠川神社があります。
『香川県神社誌』には創建不詳とありますが、松島神社と同じ稚産霊神を祭神としており、楠川神社も松島神社と同じような意図で創建されたのではと考えます。
松島神社 宮司と氏子
平成28年に大がかりな瓦葺き替え工事が行われた際、屋根裏から3m程の長さの板が出てきました。
墨書きに、「明治43年9月29日落成式」「神官 武藤周平 90才」、そして9名の大工名、5名の左官名、12名の世話方の名前がありました。
遷宮時、新拝殿屋根裏に安置したものでしょう。そして改修のたびに氏子はこの墨書きを見てきたわけです。
さて、これによって遷宮時の宮司名がわかりました。
現在の宮司は、忌部(いんべ)昌司氏です。
前は佐藤應栄(まさひで)氏でした。
その前(昭和30年頃)は、父親の佐藤勝男氏。
その前は、山川氏(下の名前は不明)、さらにその前が武藤周平氏でした。
現在の社務所表札には佐藤應栄氏の名前が残っています。
社務所に入った所には、板の代表役員表が掲げられています。
そこには「宮司 佐藤應栄」、「責任役員 七條章 真部歳一 臼井敞三 田岡幸敏 笠間清三郎 永谷梅雄」(注:以上の方でご存命なのは七條章氏のみ)、そして「當家組」として、「松島町二丁目東部」7名、「松島町二丁目西部」10名、「辷(すべり)北部」1名、「辷中部」12名、「辷南部」7名、「松福町」7名、「松島町中和」3名の氏子名が書かれています。
松島神社の現在の氏子地域がここからわかります。
松島神社の祭り
次に松島神社の祭りについてです。
神社前の説明板には、歳旦祭(1月1日)、初荒神(1月27日)、市立祭(4月27・28日)、大祭(7月27・28日)、庭燎祭(12月27日)となっていますが、現在実施されているのは、歳旦祭(さいたんさい)と大祭と庭燎祭(ていりょうさい)です。
歳旦祭は新年である正月元旦の早朝に執り行われる神事です。
年が代わる0時に宮司によるお祓いそして祝詞があげられます。多くの氏子がお詣りします。
大祭は一番の神事で、子どもたちが楽しみにしている「お祭り」です。
最近の神社では大祭の日を、多くの人が参加できるように土日に設定する傾向が見られます。高松の氏神である石清尾八幡宮もそうしています。
松島神社でも一時、土日にしたこともありましたが、現在は「夏祭り」としてもともとの日に実施しています。
氏子総代を中心に子ども会も参加して、輪投げ・射的・くじ引きなどのゲームや焼き鳥・飲み物・かき氷などの店がでて、遠方からも多くの子供たちが集まります。
大祭で神事だけになってしまった神社が多い中、賑わいを維持しています。
さすがに子ども獅子舞が地域を回る(数年前まで実施)ということはできなくなりましたが、拝殿内での子ども獅子舞や巫女舞いは続けられています。
庭燎祭は、古いお札や縁起物を焼いて無病息災を祈る神事でおみかん焼きのことです。
焼いたみかんを食べると風邪をひかないなどといわれます。
かつては12月でしたが、現在は1月に実施されています。
宮司の祝詞のあと、各家から持参された古いお札などに神聖な火がつけられて、子ども会保護者の準備したみかんを吊った竿で焼いています。
戦後のまだ娯楽が少なかった頃には、地域の大人も子どもも夏祭りなどが大きな娯楽でした。
参道両側に出店が隙間なくずらりと並び、境内広場では布スクリーンに納涼映画が映され、特設舞台では踊りなどが披露されていたそうです。
昔ほどではありませんが、現在も地域に支えられた賑わいある神社です。
松島神社と昔話
神社に関わる昔話です。
『松島の風土記』(平成8年)に「荒神さんのお祭り」の題で、当時の松島小学校四年生と二年生の井口さん兄弟が書いた部分があります(昭和43年の記述)。
そこに松島神社の「たぬきの神さま」についての部分があるので以下に載せます。
本殿の東がわに地じんさんとせんだんの神がおまつりされています。
せんだんの神さんを、みんなは『たぬきの神さま』とよんでいます。
この荒神さんについて、おばあさんは、つぎのような話をしてくれました。
おばあちゃんがまだ子どもだったころは、松島町もいまのように家がこんなにこんでおらず町の通りにもいたるところ空き地やはたけがあってさびしいところだったそうです。
家の外や道ばたにいねやむぎなどををたくさんほしてあった昔のころは、夕方などは人も通らず、たぬきの話がよくにぎわったそうで、ちょうちんをさげた花よめさんが、たびたび通ったという話、やさいをひいたおひゃくしょうさんが、このへんでおなじ道をぐるぐる廻っていたという話、子ども心にもばかばかしいと思ったが、松島神社がここに移されたとき、(大正のはじめごろ)境内の『せんだん』の大きな木が、じゃまになるので切りたおしたそうです。
その『せんだん』の木のうとろの中から、ふるたぬきが二ひきとび出してきたので大ぜいでなぐりころしてしまったそうです。
あとでかわいそうに思って、そこにほこらをつくってまつったのだそうです。
いまは『せんだん』の木にかわって、二本の大きなくすの木があるということは、前に書いた通りです
讃岐には狸が登場する昔話が多くありますが、松島神社にもあるということです。
なお、現在、松島神社に狸を祀った祠というのはありません。
松島神社の境内
さて、松島神社の境内は、本殿・中殿・拝殿が並び、北東方向に参道が延びています。
参道は約50mあります。
参道の入口は、松島本丁筋と呼ばれる、市道松島町8号線に面しています。
これは江戸時代の五街道のひとつ「志度街道」です。拝殿の隣には社務所があります。
『松島の風土記』(平成8年)記載の松島神社境内図に書き加えたものを載せます。
図の下あたりに、「北向き」と方向矢印を書いていますが、正確には下方向が北東です。
境内にはたくさんの石製のものが立っています。
石表面の磨滅で読めなくなったものもありますが、だいたいは奉納者名や年号を読み取ることができます。
その一覧を載せますが、遷宮の明治43年以前のものもいくつかあります(以下の中で、西暦年を記したもの)。
それらは遷宮前の神社境内から運んできて再利用したものです。
なお、「参道入口の玉垣の氏名」と「遷宮記念碑表裏の文字」と「拝殿前4本の金一封石碑の氏名」と「五角柱の地神さんの神名」は除きます。
では、入口付近から順に、拝殿に向かって見ていきます。
(ア)入口すぐの右側の大石灯籠「三宝大荒神・石清尾八幡宮・金毘羅大権現・安政六己未年正月吉日・元山村石工・為吉」
(イ)入口すぐの左側の大石灯籠「白鳥大神宮・江戸御手廻中・文政六癸未歳・九月吉良日・世話人・御駕籠者・丸山石工・槌右衛門」
(ウ)狛犬一対「立太子式紀念・大正五年十一月吉良日・大阪道頓堀・寺嶋正行・アヱ・世話人・植松信次・脇谷文次郎」
(エ)鳥居「御大典紀念・大正四年十月吉辰建立・浅田清太郎」
(オ)石灯籠一対「大正七年一月建立・世話人・松尾岩吉・大阪市西区九条南通三丁目・松尾弥太郎・コメ・大阪市西区北境川町・松尾惣三郎・キクヨ」
(カ)鳥居(刻字なし)
(キ)敷石寄附者「敷石寄附者・大阪・高尾長行・昭和九年七月二十七日之建」
(ク)石灯籠一対「松嶋・竹田弥吉・明治十丑年一月吉日」
(ケ)手水鉢「浅田清太郎・梅吉・大正七年一月吉日」
(コ)神馬「高松市松福町二丁目・山下太次郎・世話人松島町二丁目平田惣一・井口桂一・昭和四十七年七月吉日」
(サ)しめ柱「立徳闇味之中・明治二十九年五月吉辰・東濱村字松島・彰刑萬物之上・中條太市」※明治29(1896年)
(シ)ご神木「高松市の名木・樹木名クスノキ・指定番号第二十号・指定年月日昭和五十四年三月一日」
(ス)百度石「安岡辰藏・明治三十六年正月」※明治36(1903年)
(セ)狛犬一対「(狛犬)住屋亀太郎・加納屋祐次郎・多田竿助・吉田屋栄佐・春木屋廣吉・(その他多数)・慶應三年七月丁卯」※慶應3(1867年)
(ソ)ご神木「記念樹・尾﨑松太郎・大正十三年九月」
(タ)手水鉢「明治四十三年・奉納・植佐・吉栄・柏・大喜・・・」※明治43(1910年)
(チ)敷石の溝部分に氏名などが見られる。これはもと玉垣などに使用されていたものを、敷石の溝の石に再利用したものではないかと考えられる。「松尾岩吉」、「○○年二月氏子中」、「髙木幸助」、「平田惣太郎」、「田村卯兵衛」。
拝殿内部に2枚の古い絵馬が掛けられています。
遷宮前のもので、ひとつは「明治12年10月」の年号で、拝殿前で拝んでいる人物が描かれています。
もうひとつは「明治26年旧2月 松島荒神社 神主 武藤周平」の額字で、波切車紋と神主が描かれています。
どちらもはっきり読め取れないのが残念です。
切札(版を押された紙のお札)は、玄関の内側や外側、台所(かまど)、井戸、柱や壁などに貼るものです。
松島荒神さんのお札は火災や災難除けの御利益があるとされ、昔なら竈(かまど)、今なら台所に祀ります。
お札に名前のある、澳津彦命(おきつひこ)・澳津姫命(おきつひめ)は大事な竈を司る神です。
